Love letter
Love letterをもらったがカナダからではないし、女性からでも勿論ない。Lazyの論説委員牛さんからだ。メールではなく、手渡しによってだ。それは白昼堂々となされるヤクの受け渡しのようであった。
二億四十年前、僕は校庭でおかっぱ頭の子に呼び止められた。「Y君、これ読んで」と一通の封書を手渡すと小走りで立ち去った。
僕の手には若草色の封書が残った。
牛さんからのletterもライブに対する愛情あふれるものであった。
紹介しておく。
以下、文責牛さん
<Jazzfessの機会は誰に>
提起されたのは「jazz fessの機会は誰に与えられるべきか」である。
多数の演奏家が参加する公開演奏をJazz fessと言うとしよう。それ自体は生演奏会の一形態に過ぎないから、機会は不特定多数に与えられている。
ところが、Jazz fessを仕組みとして捉えると、一般ファンが接する音楽祭という表の顔と、『興行』なる舞台裏の世界によって成り立っている。その裏側については、直近のDiary「金のフルート、銀のフルート」の文面から"宣伝、スポンサー、動員目標"などの言葉を拾うことができる。
普通の人々が『興行』を見聞きするのは映画だと思う。例えば、映画の質より興行収入が覇者として君臨するハリウッド映画は、もう壊すものも殺すものもなくなってしまうところまで来てしまった。受けスジは飽きられるまで繰り返されるのだ。安く仕入れて高く売るというだけの職業観は、儲け話以外に微笑み掛けるものを失っているのだろう。
もう一度、Diaryに戻ると、Jazz fessへの参加が興行側からドタキャンしてきたとのことだ。一方的な約束反故にはペンペン草も生えない。だから別の場所に盤渓jazz fessの果実を見出すことにしたのだという。
ささやかにジャズファンであり続ける者は、ハリウッド映画風の消費ジャズには興味がないから、受け狙いのジャズを聴きたいとは決して思わない。メディアでの露出度やCDセールスとコンサートの実質とは相関が低いことを経験的に知っているからである。
そして「jazz fessの機会は誰に与えられるべきか」。平凡な答えしかない。ブッキングしたミュージシャンとよい演奏を望むファンに与えられればよいのだ。勿論、興行師は含まれない。「出演する2グループは最高の演奏をする為に作られている」というのが、その理由である。筆者はいま、アリストテレスになった気分である。
久し振りの駄洒落(哲学編)
アルキメデスの健二(在札有名ドラマー)
イースト・プラトン(井上淑彦氏の名曲)
アルケゴール(競歩)
√ (デカルート)
カント・コンデリ
02 Jun, 2010 | yoshida