Picky eater
好き嫌いの有る人の事をこう呼ぶ。そして大概の人は好き嫌いがある。食べ物から酒、野球チーム、音楽まで何かのきっかけで得た嗜好、趣味と言う名のもとで消費されていく。その嗜好にあわせるべく、あるいはその嗜好が過去のものであると消費者に思わせるべく、ネクタイの幅は変えられ、スカートの丈も替えられ、ポテトチップスもコンソメ味に変えられ経済は成長していく。
音楽も例外ではない。J-popがフランス料理でjazzがくさやだとする。僕の生業はくさや専門店というぐあいに分類される。子供の頃からくさやが好きな人はまずいない。僕も例外ではない。ということは人の趣味は変わる、あるいは広くなると言う事だと思う。僕はフランス料理好きの人にくさやを食べてもらうべく、日々lazyでくさやを焼き続けている。
問題はもう一つある。不味いくさやは見せかけのフランス料理に負けてしまう。美味いくさやを提供しなければならない。くさやたるミュージシャンにも気がついた事は率直に言うようにしている。意見がぴったり一致する事を期待いている訳ではない。「うまい、くさや」に世界共通認識など有るはずは無い。一聴き手の僕はどういう感想を持っても良く、ミュージシャンは批評の荒野にさらされる。そこに一点でも接点があればよい。間抜けな意見は葬りさられるのだ。そういったblue in greenの緊張関係のような中で僕はミュージシャンと付き合いたいと思っている。またそういう微妙な打ち上げの席でユーモアのセンスを持ってネゴシエイターの役割を担ってくれる牛さんのようなリスナーが一人でも増えてくれる事を祈って今日も僕はくさやを焼いている。
ここでよくある誤解について説明したい。(僕が人の意見を認めない)と言う伝説だ。僕は先にも述べたように聴き手はどのような印象をもってもいいと思っているし、それに対して僕がどうこう言える立場には無い。例えば「ビル・エバンスはフアンキーだ」とその人が言ったとする。僕はエバンスの全レコードを聴いている訳ではないので何を聴いてそう思ったか聞きたくなる。それが「ワルツフオーデビィ」だったとする。余計わからなくなる。この人はファンキーという言葉をどういう意味で使っているか聞きたくなる。そういう質問を二三すると「そう思ったのだからいいじゃない」と小学生の様に駄々をこねるケース。こういう行為は恥ずかしいから止めた方がいいといっているだけで印象そのものを否定しているわけではない。あとは説明した日本語の中に明らかに論理矛盾があるときこれは国会答弁と一緒で突っ込まれても致し方ない。意見以前の問題なのだから。
大体全ての事柄に対して意見を持っているほうが特殊ではないか。以前英語のデベイトで「バンジージャンプの是非を問う」という設問を設定されたことがあった。全くしゃべれなかった。英語が出てこなかったと言う意味ではなく、そんな事考えた事が無かったからだ。
普段考えてない事に人を説得するに足る論理は宿らない。
12 Apr, 2010 | yoshida